詳細は以下の通りです。
- 日時:2015年11月21日(土)/22日(日)
- 場所:埼玉大学 教養学部棟 2階 23番教室
- 新刊:閲覧はもちろん無料、購入は有料
むつめ祭にご参加の際は、ぜひ文芸部のブースにお立ち寄りの上、私たちの新刊をチェックしにいらして下さい。よろしくお願いします。
(文:沖田)
また、上の場合の、「B」が表現「私はBを待っている」の中で果す役割を、名前「ブライト」が、表現「ブライトの病気」(Bright's disease)、の中で果す役割と対照できる。この名前が或る特定の病気を指すときのこの語の文法と、ブライトがかかっている病気を意味する場合の「ブライトの病気」という表現の文法とを較べてみよ。私はその差異をこう言って表現したい、前者の場合の語「ブライト」は複合名「ブライト氏病」の指標であるのに対し、後者の場合には関数「xの病気」の独立変数の値と呼べよう、と。指標は何かに言及しているとも言えよう。そしてこの言及の当否を定める仕方は千差万別である。だから、或る感情を「Bが来るとの期待」と呼ぶのは、その感情に一つの複合名を与えることであり、その中の「B」は多分、通例その感情に引き続いて来訪する人間に言及しているのである。(『ウィトゲンシュタイン全集6』p.51-52)
この方向に探求を進めるのを障げているのは、一般的なもの(generality)への我々の渇望である。(『ウィトゲンシュタイン全集6』p.46)
現実の理由には始めがあるのだということを一旦認識するならば、或る命令の果し方には理由が一切ない場合もあるという考えに君が反発することもなくなるだろう。(『ウィトゲンシュタイン全集6』p.42)そして、「なぜ」という語がもたらす混同について、ヴィトゲンシュタインは以下のように述べました。
原因を問い、動機を問う、という「なぜ」という語の二重の使い方が、動機は単に推測できるだけではなく知ることができるという考えと一緒になって、動機を我々が直接意識する原因、「内側から見られた」原因、または体験される原因だとする混同を生むのだ。――理由を述べるのは、或る結果に君を導いた計算を示すことに似ているのである。(『ウィトゲンシュタイン全集6』p.43)「理由」と「原因」の(文法の)違いは何でしょうか。著者は、「理由」と「原因」の違いは「動機」と「原因」の違いと非常によく似ていると言います。では、「理由」と「原因」と「動機」の3つの違いは何でしょうか。このようなことが参加者の間で議論になりました。