2016年12月26日月曜日

12月22日の活動報告

12月22日の活動は『クリプケンシュタインのパラドクス再訪』篠原成彦 の読書会です。

この論考は、「言語的な諸表現によって、我々が何ごとかを意味することはありえない」という結論を導くクリプケンシュタインのパラドクスを再構成するとともに、パラドクスに対する疑惑への回答を試みたという内容です。

言語によって何ごとかを意味することがありえないことを認めた上で、それでも言語は有用であると主張出来る点が巧妙であると思いました。しかしながら、言語表現が事実を示しているか否かを区別するために、観察者的視点を導入しなければならないという点に関しては議論の余地があると感じました。

(文:エヌ)

2016年12月2日金曜日

11月29日の活動報告

11月29日の活動はむつめ祭の反省会です。

さて、むつめ祭も無事に終わりました。沢山の方にお越しいただき、嬉しく思っていたところです。

何か文章を書いて、それを買ってもらうという経験を初めてしました。自分の考えを文章に乗せて送り出すというのは、会話でやりとりするのとはまた違った感じがあります。なにしろ情報が一方的に流れるわけですから、相手が何を思うかのもよくわからないし誤解されることもあり得る。言葉が手元から離れていく恐怖があるわけです(こうして文字を打っている今も!)。ですから文章表現には気を配っていきたいです。書くときも、読むときも。
■次回の活動
埼大哲学研究会 総会
(文:エヌ)

2016年11月24日木曜日

第67回むつめ祭への参加について

第67回むつめ祭におきまして、埼大哲学研究会会誌 『』号 を販売いたします。

日時:11月24日(金)/25日(土)
場所:教養学部棟 3階 35番教室

会員の書いた論考や評論のほか、座談会 「人工知能と私たち」 の内容も収録しております。

むつめ祭にいらっしゃいましたら、ぜひ哲研のブースの方にもお越しください。
お待ちしております。
(文:エヌ)

2016年11月23日水曜日

11月22日の活動報告

11月22日の活動は会誌の校正・校閲

各自の原稿が出揃ったようです。あとは製本して完成といったところ。むつめ祭まであとわずか…。

■次回の活動
むつめ祭の準備
(文:エヌ)

2016年11月4日金曜日

11月3日の活動報告

11月3日の活動は、むつめ祭で発行する会誌の企画検討。

哲研メンバーでの座談会を行いました。話題は人工知能や意識について。
各々が固有の視点を持ち、それらを擦り合わせていく作業は面白いですね。
共通認識がうまれたり、あるいは差異を確認したり。いい刺激になったと思います。

■次回の活動
未定
(文:エヌ)


2016年10月25日火曜日

10月25日の活動報告

10月25日は、貫成人『哲学マップ』(ちくま新書)の読書会を行いました。

「哲学」とは何でしょうか?こう聞かれて答えるのは難しいはず(僕にもよくわからない)。だけれど、昔のひとが哲学でどんなことを考えてきたのかには答えられる。「正義」とか「自我」とか「社会」とか・・・。そうした古代から現代までの哲学の問題が、一つの流れとして理解できるのがこの本『哲学マップ』。

様々な哲学的問いに対して、どのように考えたらよいのか?それらが哲学史という形で提示されている。人類がいままで発明してきた思考方法は、今でも十分通用できるなと思えた一冊でした。
■次回の活動
むつめ祭企画案
(文:エヌ)

2016年10月11日火曜日

10月11日の活動報告

今日は、スティーヴン・スピルバーグ監督による2001年の映画『A.I.』の鑑賞会を開きました。

近頃、「AI」(artificial intelligence, 人工知能)という言葉をよく耳にします。しかしAIについて考えようとしても、「機械学習」や「ニューラルネットワーク」、「ファジィ理論」など、何だか難しそうな単語がたくさん出てきて取っつきにくいと思う方も多いと思います。そこで今回は、人工知能を題材とした数ある映画作品の中から、巨匠スタンリー・キューブリック原案で巨匠スティーヴン・スピルバーグ監督・脚本の名作『A.I.』を観た上で、本作を題材としてAIや科学技術について考えようとしました。

■次回の活動
未定
(文:沖田)

2016年8月31日水曜日

7月21日の活動報告

7月21日は、カントの『純粋理性批判』の第4回読書会を開きました。

■次回の活動
未定
(文:沖田)

2016年7月16日土曜日

7月14日の活動報告

7月14日は、カントの『純粋理性批判』の第3回読書会を開きました。
今回は『純粋理性批判』の超越論的原理論のうち、超越論的感性論(特に空間について)の内容を確認しました。
  • 直観は認識が対象と直接に関係するための方法・思考の手段、私たちが直観し得るためには対象から意識が触発されなければならないが、感性はその触発される仕方によって表象を受け取る能力
  • 対象は悟性によって考えられ、悟性から概念が生じる
  • 対象が表象能力に与える作用によって生じた結果は感覚(Empfindung)、感覚を介して対象と関係する直観は経験的直観、経験的直観がまだ未規定なものである場合には、現象(Erscheinung)と呼ばれる
  • 現象において私たちの感覚が現象の質料・素材(Materie)、現象の多様な内容をある関係において整理するところのものが現象の形式(Form)、感覚を整理するものは感覚自身ではありえないので、現象の形式は私たちの心のうちにア・プリオリに備わっている
  • 純粋直観は感性的直観一般の純粋な形式
  • 空間は、多くの外的経験から抽象されてできた経験的概念ではなく、ア・プリオリな直観である
読書会では、空間は概念ではなく直観であることについて、多くの議論がなされました。

■次回の活動
  • 日時:2016年721日(18002000
  • 場所:教養学部406学生研修室
  • 内容:読書会
  • テキスト:カント 著『純粋理性批判』(Ⅰ 超越論的原理論 第一部門 超越論的感性論 第二節 時間について)
テキストは出来る限り各自で用意してお越し下さい。どなたでも参加可能です。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年7月13日水曜日

7月7日の活動報告

7月7日🎋は、カントによる『純粋理性批判』の読書会を開きました。
今回は『純粋理性批判』の序論(緒言)の内容を確認しました。
  • ア・プリオリな認識は一切の経験に関わりなく成立する認識、経験的認識は経験によってのみ可能な認識、純粋認識はア・プリオリな認識のうち経験的なものを一切含まない認識
  • 分析的判断は述語Bが主語Aの概念のうちにすでに含まれているような解明的判断、総合的判断は述語Bが述語Aに結びついてはいるがAの概念のそとにあるような拡張的判断
  • 純粋理性の本来の問いは「ア・プリオリな総合的判断はどのようにして可能であるか」
  • 純粋理性の批判は、純粋理性の源泉、限界を判別する、純粋理性のための予備学


■次回の活動
  • 日時:2016年714日(18002000
  • 場所:教養学部406学生研修室
  • 内容:読書会
  • テキスト:カント 著『純粋理性批判』(Ⅰ 超越論的(先験的)原理論 第一部門 超越論的(先験的)感性論)
テキストは出来る限り各自で用意してお越し下さい。どなたでも参加可能です。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年7月3日日曜日

6月30日の活動報告

6月30日は、カントによる『純粋理性批判』の読書会を開きました。
今回はカント哲学の背景や『純粋理性批判』の概要を確認したのち、第一版と第二版の序文を読みました。

実在論←→観念論
経験論←→合理論

概念・悟性+直観・感性→認識
これまでは人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、私たちの認識がそれによって拡張されるような何ものかを、対象に関してア・プリオリに概念をつうじて見つけるすべての試みは、こうした前提のもとでは失敗した。だから、はたして私たちは形而上学の諸課題において、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、いちどこころみてみたらどうであろう。(B XVI, 原佑訳)

■次回の活動
  • 日時:2016年77日(18002000
  • 場所:教養学部406学生研修室
  • 内容:読書会
  • テキスト:カント 著『純粋理性批判』(序論(緒言))
テキストは出来る限り各自で用意してお越し下さい。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年6月26日日曜日

6月16日の活動報告

6月16日は、鈴木生郎さんの論文「死の害の形而上学」(http://ci.nii.ac.jp/naid/110008798959)を読みました。

終焉テーゼ:「人は死ぬと、存在しなくなる。」
死後の害のテーゼ:「人は死後に死の害を被る。」

トマス・ネーゲルは、死は私たちから、もし死ななかったならば享受できたはずの望ましいことを剥奪するから、死は害悪である(剥奪説)と主張しました。しかしもしこの剥奪説が正しいとしても、私たちはいつ死の害を被るのでしょうか。

鈴木さんは、三次元主義+永久主義の枠組みを採用することで、終焉テーゼと死後の害のテーゼの衝突を回避することができるとしました。

■次回の活動
  • 日時:2016年630日(1800
  • 場所:埼玉大学図書館3階グループ学習室教養学部406学生研修室
  • 内容:読書会
  • テキスト:カント 著『純粋理性批判』(第一版序文・第二版序文)
テキストは出来る限り各自で用意してお越し下さい。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年6月15日水曜日

5月26日の活動報告

5月26日は、加地大介先生の『なぜ私たちは過去へ行けないのか : ほんとうの哲学入門』の読書会を行いました。今回は第二章「なぜ鏡は左右だけ反転させるのか」を読みました。

鏡は上下を反転させることはなく、つねに左右だけを反転させるという謎。

マーティン・ガードナーは、鏡は左右を逆転しているのではなく、本当は前後を逆転しているのだと主張しました(『自然界における左と右』)。
ネッド・ブロックは、鏡は上下(頭足)方向も左右も反転させないか、上下(頭足)方向も左右も反転させるかのどちらかである、と結論づけました(「なぜ鏡は右/左を反転させるが上/下は反転させないのか」)。

そして、デカルト座標と回転座標の考察を進めるうちに、鏡像反転という現象には
  1. 回転軸を基準とした反転関係にあるものとして、物体とその鏡像を捉える見方
  2. 平面を基準とした面対称の関係にあるものとして、物体とその鏡像を捉える見方
という二つの見方があることがわかりました。
私たちは鏡像を見るとき1の見方をし、頭足方向を特権視して回転軸を設定します。それは重力のせいかもしれません。

■次回の活動
  • 日時:2016年616日(18002000
  • 場所:埼玉大学図書館3階グループ学習室(2)
  • 内容:読書会
  • テキスト:鈴木生郎 著「死の害の形而上学」『科学基礎論研究』, 39(1), pp.13-24, (http://ci.nii.ac.jp/naid/110008798959
テキストは各自印刷して、できれば事前に一度お読みになってからお越し下さい。ただテキストを持っていない、あるいは読んでいない場合でも、お気軽に読書会にご参加下さい。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年5月22日日曜日

5月12日/19日の活動報告

5月12日と19日は、加地大介先生の『なぜ私たちは過去へ行けないのか : ほんとうの哲学入門』の読書会を行いました。

過去と未来の根本的な相違は何か。加地先生は、次のように述べます。
未来のできごとは、まだ始まっておらず、起きないことを可能性として含んでいる以上、それはあくまでも現時点ではまだ単なる可能性にとどまっている「可能的なできごと」だといえます。これに対して過去のできごとは、終わってしまっている以上、それが起きないことは現時点ではもはやあり得ないという意味で、現時点では「必然的なできごと」だといえるでしょう。そして現在のできごとを、可能的なできごとから必然的なできごとへと変化する最中にあるできごととして考えるならば、それはそうした変化という一種の動き、あるいは変化させるという働きを伴ったできごとだという点で「アクテュアル(actual)なできごと」だといえるでしょう。 (『なぜ私たちは過去へ行けないのか』pp.81-82)
そして、過去のできごとは実現したできごとであり実在する(be real)が、実現していない未来のできごとは可能的に存在するだけで実在するとはいえない、と主張します。しかしもしこのような違いを、過去のできごとについての主張と、未来のできごとについての主張の間に認めるとしても、その相違は排中律という論理法則の適用可能性にまで影響するほどのものでしょうか。この疑問に答えるために、「論理的真理」について考えてみましょう。
〈「明日雨が降るか降らないかのどちらかである」は論理的真理だが、「昨日雨が降ったか降らなかったかのどちらかである」は単なる論理的真理のみならず、さらにそれ以上のことも主張している〉。(前掲p.84)
この「論理的真理」の意味を考えるために、まず「二値原理」の意味を以下のように弱めます。
すべての命題は、もし真理値を持つのならば、真か偽かのいずれかである。(前掲p.85)
これは、例えば「明日雨が降る」という命題は、真偽いずれの真理値も持たない場合があるということになります。一方で「昨日雨が降った」という命題は、必ず真理値を持っている主張ということになります。そのうえで、「論理的真理」の意味を以下のように弱めます。
論理的真理とは、真理値を持つ場合には必ず真であるような命題である。(前掲p.86) 
さて、このように定義された「論理的真理」によると、もし「昨日雨が降った」という過去形「た」を用いた命題が成立するならば、「昨日雨が降る」という過去形「た」を用いない命題も同時に成立するということができます。なぜならこれは、前者は必然的に真理値を持つ過去形の真の命題であるので、後者は真理値を持つ場合には真である(論理的真理)、ということに過ぎないからです。
このように考えると、「昨日」や「明日」のような時間的前後関係を表す表現と、「た」のような時制表現が連動しないという問題が出てきます。しかし、時間的順序関係の要素を取り除いた時制表現で表されるこのものこそが、過去と未来の本来の意味なのかもしれません。

続いて、先ほど述べたような「過去は実在するが、未来は実在しない」という考えに基づいて、過去へのタイムトラベルは不可能であるということの証明をしてみましょう。
任意の二つの時点t、sについて、tよりも後にsを経過する個体が少なくとも一つ存在するとき、時点tでの世界には時点sは実在しないが、時点sでの世界には時点tは実在する。……前提A1(前掲pp.92-93) 
この場合の「時点tは実在する」とは、「時点tで起きているできごとについて述べる命題はすべて真理値をもっている」と考えます。するとたとえば、1960年に発生し、それ以降持続していた実体が、2000年の時点で1980年にタイムトラベルすることは不可能ということになります。なぜなら前提A1により、1980年の時点で2000年が実在すると同時に実在しない、という矛盾が起きてしまうからです。この前提によると、幼い頃の自分を殺すとか、幼い頃の自分に何かを渡すことなどにより生じる謎を回避することができます。
また、不可能とされるタイムトラベルを拡張するため、実体間の依存関係(実体連鎖と呼ぶ)を利用すると、前提A1を少し変形して、以下のようになります。
任意の二つの時点t、sについて、tよりも後にsを経過する実体連鎖が少なくとも一つ存在するとき、時点tでの世界には時点sは実在しないが、時点sでの世界には時点tは実在する。……前提A2(前掲p.96) 
この前提A2を認めると、自分の親や祖先を殺そうとすることによる謎や、自分の祖先に何かを渡すことにより生じる時間の輪の謎も回避されることになります。したがって、前提A2さえ認めれば、過去へのタイムトラベルは不可能なことが証明できてしまいます。
しかし、そもそも「過去は実在するが、未来は実在しない」という発想そのものが妥当であるか、また実在性について過去と未来の非対称性を実体(連鎖)に即して捉えることが妥当であるか、疑問が出てきます。加地先生は、「過去は実在するが、未来は実在しない」ということを正当化したいと考え、「過去のできごとと未来のできごとの存在性格が根本的に異なることを議論の出発点とすべき」(前掲p.98)と述べます。

前提A2に依存しないような、私たちは過去へ行けないことの別の証明を考えると、以下のような前提が提起されました。
任意の実体(連鎖)xと任意の時点tについて、実体(連鎖)xが時点tを二度以上経過することはない。……前提B (前掲p.105)
これはつまり、「いかなる実体(連鎖)といえども、それがその時々に経過している時点は、常にその実体にとって未経験の新たな時点である、ということです」(前掲p.105)。そうすると私たちの人生は、取り返しのつかない一回限りの時点を経験することの連続であるとも言えます。これは、私たちの「時の流れ」という直観の根源にあるものではないでしょうか。

会員からは、そもそも論理的な矛盾を含むような出来事が起きることこそが過去へのタイムトラベルなのであるから、その矛盾を上のようにいくら指摘したところで、過去へ行けないことの証明にはならないのではないのか、という意見がありました。加地先生も同じような反論を予想していました(前掲p.106)。
つまり、なぜ私たちは過去へ行けないのか、という問いは、そもそも過去へ行けないとはどういうことであるか、ということを確認することによってしか答えられない問いだったのです。ひとつの対象として持続的に存在する個体としての「実体」と、実体が二度経過することが不可能な何ものかとしての「時点」という、少なくとも二種類のものの存在を承認するということ、そのこと自体が、私たちが過去へは行けないということそのものを実は意味していたのです。(前掲p.106)

■次回の活動
  • 日時:2016年526日(1800
  • 場所:教養学部406学生研修室
  • 内容:読書会
  • テキスト:加地大介 著『なぜ私たちは過去へ行けないのか : ほんとうの哲学入門』(第二章p.111~)
テキストは現在絶版となっており、入手が困難だと思いますが、研修室に若干数を所蔵してあります。テキストをお持ちでない方も、お気軽に読書会にご参加下さい。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年5月3日火曜日

4月28日の活動報告

先日は、新たな会員を交えて、加地大介先生の『なぜ私たちは過去へ行けないのか : ほんとうの哲学入門』の読書会を行いました。

まず、ジェームズ・キャメロン監督による1991年の映画『ターミネーター2』のストーリーを確認しました。すると、いくつかの謎が出てきました。(第一章 3)
  1. 過去は変えられるのか?
  2. 未来は変えられるのか?
  3. 過去(のできごと)を引き起こすことはできるか?
  4. 「時間の輪」の謎
  5. 未来は決定しているのか?
  6. そもそも過去へ行けるのか?
そして、二人の哲学者の思考実験に触れました。一つは、マイケル・ダメットの踊る酋長(Bringing About the Past, 1964)です。彼はまず、大戦中にロンドンで流行したという宿命論を紹介します。
〈あなたは爆弾で殺されるか殺されないかのいずれかだ。もしも殺されるのならば、あなたが予防策をとろうととるまいと、あなたは殺されるのだ。したがってこの場合、どんな予防策も無効だということになるだろう。もしも殺されないならば、あなたが予防策をとろうととるまいと、あなたは殺されないのだ。したがってこの場合、どんな予防策も余計だということになるだろう。つまりいずれの場合にせよ、予防策をとることには何の意味もない〉。(『なぜ私たちは過去へ行けないのか』p.41)
この議論の中に出てくる「予防策」について、もし爆弾で殺されなかったならば、予防策が有効だったとも言えるので、「どんな予防策も余計だ」とは言えないのではないか、という反論があるかもしれません。
このロンドンの宿命論と似たようなものとして、ダメットは踊る酋長(しゅうちょう)の思考実験を紹介します。
 私たちが次のような慣習を持つ部族に出くわしたと仮定しよう。その部族の若者は、成人式の一環として、二年ごとにライオン狩りに送り出される。若者たちは男たることの証を立てなければならないのである。彼らは二日間旅をし、二日間ライオン狩りをする。そして、さらに二日間を帰路の旅に費やす。見張り人が彼らに同行し、帰ると直ちに、若者たちが勇気に振る舞ったかどうかを酋長に報告する。
 さてその部族の人々は、酋長によって催される種々の儀式が天候、収穫などに影響を与える、と信じている。そこで酋長は、若者たちが部族から離れている間、若者たちが勇敢に行動するように、ということを祈る踊りを儀式として行う。酋長は、その一行が留守にしている六日間を通して、この踊りを踊り続ける。(『なぜ私たちは過去へ行けないのか』pp.42-43) 
さて、最後の二日間の酋長の踊りは、若者たちが勇敢だったか否かに関係するでしょうか。つまり、逆向き因果は成立するのでしょうか、という疑問が湧いてきます。私たちは常識として、このような逆向き因果は成立しないように思います。しかしダメットは、逆向き因果は不合理なものではないと認めざるを得ないと結論しました。

二つ目は、リチャード・テイラーによるオズモの物語(Metaphysics, 1963)という思考実験です。ここで詳しくは紹介しませんが、この物語によって彼は、排中律や二値原理といった論理法則が、過去命題だけではなく未来命題にも同様に適用できると主張しました。

ダメットもテイラーも、「実は過去も未来も同様だ」と主張したのです。しかし、タイムトラベルのうち過去のタイムトラベルだけに、時間の輪や逆向き因果といった謎が生じるのです。では、過去と未来の根本的な相違は何でしょうか。次回は、このようなことを考えたいと思います。

■次回の活動
  • 日時:2016年512日(1800
  • 場所:教養学部406学生研修室
  • 内容:読書会
  • テキスト:加地大介 著『なぜ私たちは過去へ行けないのか : ほんとうの哲学入門』
テキストは現在絶版となっており、入手が困難だと思いますが、研修室に若干数を所蔵してあります。テキストをお持ちでない方も、お気軽に読書会にご参加下さい。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年5月1日日曜日

第二十二回文学フリマ東京に出店参加します!

告知が大変遅くなりましたが、本日、第二十二回文学フリマ東京に出店参加します。詳細は以下の通りです。
  • 日時:2016年51日(11001700
  • 場所:東京流通センター 第一展示場
  • 配置:-39
  • 内容:会誌頒布
  • 頒布物:『埼大哲学研究会誌 : 臨号』(新刊)など
■参考リンク
第二十二回文学フリマ東京 開催情報(文学フリマ公式サイト内):http://bunfree.net/?tokyo_bun22
アクセス情報|TRC 東京流通センター:http://www.trc-inc.co.jp/access/index.html

当日は、私たちが作成した会誌や冊子を持っていき、頒布・展示する予定です。お待ちしております。
(文:沖田)

2016年2月17日水曜日

12月31日(C89)の活動報告

あけましておめでとうございます。ブログの更新が遅くなりましたが、2016年(平成28年)になりました。今年も埼大哲学研究会をよろしくお願いします。

去年の大晦日に、私たちはコミックマーケット89へサークル参加しました。わざわざお立ち寄り頂いた方々、そして会誌をお買い上げ頂いた方々へ、ありがとうございます。

今回、会場にて頒布したものは以下の通りです。
  • みなみ(2015)『アッカリ~ン : 存在について』(ΑΚΚΑΛΙΝ, 新刊
  • 湯山, みなみ 編(2015)『埼大哲学研究会誌 : むつめ号』(既刊
  • 埼玉大学文芸部レーゼさんの会誌(既刊
本年は、昨年よりさらに活発に活動したいと思っておりますので、イベントではチェックの程、また日々の読書会などにはご参加の程、よろしくお願いします。
(文:沖田)