この論考は、「言語的な諸表現によって、我々が何ごとかを意味することはありえない」という結論を導くクリプケンシュタインのパラドクスを再構成するとともに、パラドクスに対する疑惑への回答を試みたという内容です。
言語によって何ごとかを意味することがありえないことを認めた上で、それでも言語は有用であると主張出来る点が巧妙であると思いました。しかしながら、言語表現が事実を示しているか否かを区別するために、観察者的視点を導入しなければならないという点に関しては議論の余地があると感じました。
(文:エヌ)
これまでは人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、私たちの認識がそれによって拡張されるような何ものかを、対象に関してア・プリオリに概念をつうじて見つけるすべての試みは、こうした前提のもとでは失敗した。だから、はたして私たちは形而上学の諸課題において、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、いちどこころみてみたらどうであろう。(B XVI, 原佑訳)
未来のできごとは、まだ始まっておらず、起きないことを可能性として含んでいる以上、それはあくまでも現時点ではまだ単なる可能性にとどまっている「可能的なできごと」だといえます。これに対して過去のできごとは、終わってしまっている以上、それが起きないことは現時点ではもはやあり得ないという意味で、現時点では「必然的なできごと」だといえるでしょう。そして現在のできごとを、可能的なできごとから必然的なできごとへと変化する最中にあるできごととして考えるならば、それはそうした変化という一種の動き、あるいは変化させるという働きを伴ったできごとだという点で「アクテュアル(actual)なできごと」だといえるでしょう。 (『なぜ私たちは過去へ行けないのか』pp.81-82)そして、過去のできごとは実現したできごとであり実在する(be real)が、実現していない未来のできごとは可能的に存在するだけで実在するとはいえない、と主張します。しかしもしこのような違いを、過去のできごとについての主張と、未来のできごとについての主張の間に認めるとしても、その相違は排中律という論理法則の適用可能性にまで影響するほどのものでしょうか。この疑問に答えるために、「論理的真理」について考えてみましょう。
〈「明日雨が降るか降らないかのどちらかである」は論理的真理だが、「昨日雨が降ったか降らなかったかのどちらかである」は単なる論理的真理のみならず、さらにそれ以上のことも主張している〉。(前掲p.84)この「論理的真理」の意味を考えるために、まず「二値原理」の意味を以下のように弱めます。
すべての命題は、もし真理値を持つのならば、真か偽かのいずれかである。(前掲p.85)
論理的真理とは、真理値を持つ場合には必ず真であるような命題である。(前掲p.86)さて、このように定義された「論理的真理」によると、もし「昨日雨が降った」という過去形「た」を用いた命題が成立するならば、「昨日雨が降る」という過去形「た」を用いない命題も同時に成立するということができます。なぜならこれは、前者は必然的に真理値を持つ過去形の真の命題であるので、後者は真理値を持つ場合には真である(論理的真理)、ということに過ぎないからです。
任意の二つの時点t、sについて、tよりも後にsを経過する個体が少なくとも一つ存在するとき、時点tでの世界には時点sは実在しないが、時点sでの世界には時点tは実在する。……前提A1(前掲pp.92-93)この場合の「時点tは実在する」とは、「時点tで起きているできごとについて述べる命題はすべて真理値をもっている」と考えます。するとたとえば、1960年に発生し、それ以降持続していた実体が、2000年の時点で1980年にタイムトラベルすることは不可能ということになります。なぜなら前提A1により、1980年の時点で2000年が実在すると同時に実在しない、という矛盾が起きてしまうからです。この前提によると、幼い頃の自分を殺すとか、幼い頃の自分に何かを渡すことなどにより生じる謎を回避することができます。
任意の二つの時点t、sについて、tよりも後にsを経過する実体連鎖が少なくとも一つ存在するとき、時点tでの世界には時点sは実在しないが、時点sでの世界には時点tは実在する。……前提A2(前掲p.96)この前提A2を認めると、自分の親や祖先を殺そうとすることによる謎や、自分の祖先に何かを渡すことにより生じる時間の輪の謎も回避されることになります。したがって、前提A2さえ認めれば、過去へのタイムトラベルは不可能なことが証明できてしまいます。
任意の実体(連鎖)xと任意の時点tについて、実体(連鎖)xが時点tを二度以上経過することはない。……前提B (前掲p.105)これはつまり、「いかなる実体(連鎖)といえども、それがその時々に経過している時点は、常にその実体にとって未経験の新たな時点である、ということです」(前掲p.105)。そうすると私たちの人生は、取り返しのつかない一回限りの時点を経験することの連続であるとも言えます。これは、私たちの「時の流れ」という直観の根源にあるものではないでしょうか。
つまり、なぜ私たちは過去へ行けないのか、という問いは、そもそも過去へ行けないとはどういうことであるか、ということを確認することによってしか答えられない問いだったのです。ひとつの対象として持続的に存在する個体としての「実体」と、実体が二度経過することが不可能な何ものかとしての「時点」という、少なくとも二種類のものの存在を承認するということ、そのこと自体が、私たちが過去へは行けないということそのものを実は意味していたのです。(前掲p.106)
〈あなたは爆弾で殺されるか殺されないかのいずれかだ。もしも殺されるのならば、あなたが予防策をとろうととるまいと、あなたは殺されるのだ。したがってこの場合、どんな予防策も無効だということになるだろう。もしも殺されないならば、あなたが予防策をとろうととるまいと、あなたは殺されないのだ。したがってこの場合、どんな予防策も余計だということになるだろう。つまりいずれの場合にせよ、予防策をとることには何の意味もない〉。(『なぜ私たちは過去へ行けないのか』p.41)
私たちが次のような慣習を持つ部族に出くわしたと仮定しよう。その部族の若者は、成人式の一環として、二年ごとにライオン狩りに送り出される。若者たちは男たることの証を立てなければならないのである。彼らは二日間旅をし、二日間ライオン狩りをする。そして、さらに二日間を帰路の旅に費やす。見張り人が彼らに同行し、帰ると直ちに、若者たちが勇気に振る舞ったかどうかを酋長に報告する。
さてその部族の人々は、酋長によって催される種々の儀式が天候、収穫などに影響を与える、と信じている。そこで酋長は、若者たちが部族から離れている間、若者たちが勇敢に行動するように、ということを祈る踊りを儀式として行う。酋長は、その一行が留守にしている六日間を通して、この踊りを踊り続ける。(『なぜ私たちは過去へ行けないのか』pp.42-43)